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第62話
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あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1021話
「記憶を取り戻したいの？」不意に投げかけられた問いに、弥生はすぐには答えられず、かえって考え込んでしまった。取り戻したいような気もする。誰だって取り戻したいと思うはずだ。だが、ここまでのことを考えると、記憶を戻すことが本当に重要なのかどうか、そうでもないようにも思えてきた。たとえ記憶が戻らなくても、自分を大事に思ってくれる人は変わらず大事にしてくれる。瑛介はあれほどの重傷を負いながらも、目覚めた瞬間に自分を救いに駆けつけてくれた。記憶は彼女にとって大切なものではある。だが、それほど決定的に大事なものでもないのかもしれない。そう考えた弥生は口を開いた。「記憶を取り戻せるかどうかは、縁に任せるわ。無理に求めすぎたら、かえって逆効果になるかもしれないし」その言葉に瑛介は一瞬きょとんとした。彼女がそんなふうに考えているとは思わなかったのだ。てっきり「取り戻したい」か「取り戻したくない」と答えると思っていたのに。しばらく思案したあと、瑛介の唇がふっと笑みにゆるんだ。「やっぱりだな。そういう考え方はいい。自分をすり減らさずに済む」その言葉に、弥生はつい笑ってしまった。「自分をすり減らしてどうするのよ。疲れるだけだわ」今の彼女は救い出され、大切な人がそばにいる。そして、もうすぐ二人の可愛い子どもに会える。そんな状況でどうして心をすり減らす必要があるだろう。それに、記憶というものは自分が望んだからといって戻るものではない。焦っても仕方がない。ならば現状を受け入れたほうがいい。きっといつか自然に戻ってくるだろう。瑛介は彼女の後頭部をそっと撫で、口元に笑みを浮かべた。「その考えでいい」ほどなくして、二人は屋敷の門の前にたどり着いた。今は門が固く閉ざされている。瑛介は記憶を頼りに呼び鈴を押そうとしたが、その手を不意に弥生に掴まれた。「待って」「どうした？」そう言った瞬間、彼は気づいた。弥生が掴んでいる自分の手が震えている。「......怖いのか？」弥生は唇をかすかに噛みしめ、小声で言った。「怖いんじゃないの。ちょっと緊張してるだけ」彼女は、誰かに言われなければ、自分に二人の子どもがいることすら知らなかったのだ。会えなかった間は会いたくてたまらなかった。だが、いざ本当に会えるとなると、心が急
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1020話
運転手が頷いた。「承知しました」車は人目につかない路肩に停められた。通りかかった地元の人は、その高級車を何度も振り返り、不思議そうに立ち止まって眺めた。「うちの村、このところやけに高級車が来るな」「和紀子の車らしいぞ。この前来たのは和紀子の娘さんだ。娘さんは孫を連れて老人を見舞いに来てたそうだ。その子ども二人がな、まぁ何とも言えないくらい可愛くて、やっぱり都会の子は違うよ」「そうそう、この前うちも和紀子の庭先を通ったときに見たんだ。孫が遊べるようにって、ブランコを作ってやったらしいぞ」人々は歩きながら口々に話した。ある者は「和紀子は本当に幸せな人だなぁ。娘さんも立派だ」と言い、またある者は「孫もすごい、都会で有名な人物なんだ」と喋った。さらに別の者は「いやいや、和紀子自身がすごい人だよ。年を取ってこの綺麗な村を選んで暮らしてるんだ」と語った。自分たちの村が綺麗だと話題が及ぶと、皆が誇らしげに胸を張り、自慢げに語り合った。車窓を少し下げ、瑛介はその会話を黙って聞いていた。外祖父が孫たちのためにブランコを作ったと耳にした瞬間、彼の薄い唇が自然とほころんだ。どうやら、あの二人も祖父母に大切にされているらしい。それも当然だ。二人は聡明で素直だ。身内だけでなく親戚や外の人でも、一目見れば可愛くてたまらなくなるだろう。結局のところ、人は美しいものを拒むことなどできないのだから。瑛介が視線を落とすと、弥生がゆっくりと目を覚ましていた。彼女は彼の腕に抱かれたまま数秒瞬きをして、それから仰ぎ見て言った。「私、寝ちゃった？」「うん」瑛介は頷きながら、指先で彼女の頬をなぞり、乱れた髪を耳に掛けて整えてやった。そこで弥生は車が止まっていることに気づき、外の光景を見て瞳を輝かせた。「もう着いたの？」その表情に、瑛介の口元が緩み、穏やかな声で頷いた。「ああ、着いた」「どうして起こしてくれなかったの？」弥生は無意識に拗ねた声を出し、慌ただしく彼の胸から抜け出そうとした。そして彼を思い切り押しのけた。突き放された彼は、仕方なく後を追って下車した。「足元に気をつけろ。寝起きで転ぶなよ」車を降りると、瑛介は弥生を伴って村の中へと歩みを進めた。荷物は後ろの者たちが運ぶことになっている。歩きなが
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1019話
でも彼の境遇と自分のことを比べれば、彼が怒るのも無理はない。「この件にはもう口を出すな。今のお前は記憶を失っているんだ。ゆっくり養生していればいい」「でも......」弥生はまだ少し迷っていた。「僕が処理できないとでも思ってるのか？」「そういうわけでは......」弥生は瑛介の整った顔立ちを見つめ、言いかけた言葉を彼の眼差しに遮られて、喉奥で飲み込んだ。まあいい。記憶はなくとも、自分が選んだのだ。なら任せてみよう。そもそも弘次のやったこと自体が間違いだ。彼女はそれ以上言葉を重ねず、軽く身を後ろへ預けた。本当はシートに寄りかかろうとしただけだったのに、瑛介がすかさず腕を伸ばして抱き寄せたため、そのまま彼の胸に凭れかかる形となった。「少し休め」彼の胸元の温もりは弥生に安らぎを与えた。彼女は拒むことなく、むしろ自分から腕を回して彼の細い腰を抱きしめ、すっかり身を委ねた。瑛介は一瞬だけ動きを止め、無意識にさらに強く抱き寄せた。失ってまた取り戻した。その実感をどうしても確かめたかった。最初は道も平らだったが、やがて山道に入り、道はでこぼこし、揺れがひどくなった。山肌に沿った細い道には監視カメラもなく、落石の危険さえある。運転していたのはベテランドライバーで、すぐに危険区間を抜けていった。離れると、弥生は眉を寄せた。「あの道、ちょっと怖かったわね」瑛介は腕の中の彼女を抱きしめたまま無言だった。呼吸を整えるのに必死だったのだ。さっきの揺れで、彼女の体が胸に何度もぶつかってきた。最初は庇うのに夢中で余計なことを考える余裕もなかったが、回数が増えるにつれ、平静を保つのが難しくなった。ようやく息を整えると、掠れた声で言った。「明日には、あの道を修復させる」弥生は心の中で思った。修路には莫大な費用がかかるはず。けれど、この男の言い方からして金には困っていない。ということは、自分の子どもたちの父親はかなり裕福な人らしい。それを思うと、弥生は素直に満足し、瑛介の腰をぎゅっと抱き寄せた。せっかく落ち着いた感情がまた掻き乱された。仕方なく、瑛介は彼女の背を撫で、長い指で髪の毛先を弄んだ。やがて弥生は彼の胸の中で眠りに落ちた。彼が気づいた時、彼女の腕が自分の腰から滑り落ちていた。瑛介はその手を取
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1018話
「僕の怪我は大したことない。薬を替えて休めば問題ないし、外出には支障はない。それに、今回はお前を抱えて走る必要もないしな」最後の一言は明らかに冗談めかしていて、弥生は思わず彼を睨んだ。「よくそんなことが言えるわね？」「もういいだろ。どこか具合悪くないなら、先に少し食べるか？報告は後で見ればいい」「......うん」確かに少しお腹が空いていた弥生は頷いた。瑛介はすぐに食事を用意させた。彼は弥生が最近ほとんど食欲をなくしていたことを知らなかったが、昏睡から目覚めたばかりということもあって、食べやすいものを準備していた。弥生は気づかれたくなくて、ゆっくり食べ進めた。食欲を取り戻したとはいえ、回復には時間が必要だし、今伝えたところで彼を余計に心配させるだけだ。やがて少しだけ満腹感を覚えると、弥生は自制してスプーンを置いた。瑛介がすぐに手を伸ばして器を受け取った。「もういいのか？」弥生は頷いた。「うん......起きたばかりだから、あまり食欲がないの。次に食べるわ」瑛介は特に不審に思わず、頷いて使用済みの食器を下げさせた。やがて検査結果が出た。医者によれば、弥生に大きな問題はなく、記憶喪失については薬はなく自然回復を待つしかないという。ただ少し栄養失調気味だとのことだった。その言葉を聞いた瞬間、瑛介の指は報告書を握りしめ、血が滲むほどに力がこもった。かつてから華奢だった彼女の手首が、帰ってきた今はさらに細くなっている。栄養失調？この短期間に、一体どれだけの苦しみを受けてきたのか。記憶を失い、栄養まで失って......考えるほどに、瑛介の胸に怒りが渦巻いた。くそ、弘次。好きだと言っていたくせに、どうして彼女をこんな姿にした？もし、自分があと一歩遅れていたら......瑛介は奥歯を噛みしめ、拳を固く握りしめた。弥生のもとに戻ったときには、先ほどの感情をすっかり隠していた。彼はただ優しく外套をかけ、穏やかに声をかけた。「車はもう用意してある......何か持っていきたい物はあるか？」「えっと......特にないと思う」必要なものがないのか、それとも記憶のせいで何を持っていけばいいのか分からないのか。結局、使用人が日用品を少しまとめてくれた程度だった。その曖昧な
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1017話
弥生は、自分が記憶を失う前はどんな性格で、こういうときにどう対処していたのかは分からない。でも、少なくとも今の自分は目の前の彼を叱らずにはいられなかった。今は無事だったれど、もしものことがあったら？万が一のことを考えるだけで胸がざわついた。瑛介もその深刻さを悟っていた。目覚めたばかりの弥生が感情を昂らせるのは良くないと判断し、これ以上の言い争いはやめて、すぐに頭を下げた。「俺が悪かった。もう二度としない。本当に反省してる。だから......怒らないでくれないか？」あまりに早い謝罪に、弥生は思わず目を瞬かせた。「すぐに反省するのは偉いわね。それとも私を怒らせたくないだけ？もしまた同じ状況になったら、結局繰り返すんじゃないの？」「誓うよ。次はない」二度と彼女を誰にも奪わせない。そう心に決めているから、嘘ではない。ここまで彼が謝罪し、約束までしたのに、それ以上追及すれば自分が理不尽に見えてしまう。弥生はそれ以上は言わなかった。「こんなに長く起きていて、どこか不調はないか？」瑛介が慎重に問いかけた。「ないわ」弥生は首を横に振った。本当は弘次のことを聞きたかった。でも、さっきその名前を口にしただけで瑛介の表情が険しくなったのを思い出し、結局その思いを胸の奥に押し込んだ。代わりに、別のことを尋ねた。「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるの」その前置きに、瑛介の眉間からわずかな笑みが消える。「何だ？」また墨白の話かと疑ったのだろう。弥生は無意識にため息をつく。「変な想像しないで。......前に友作が言ってたの。私には二人の子どもがいるって。今、その子たちはどこにいるの？」まさか失ったはずの記憶の中から、彼女がその話題を出すとは思わなかった。瑛介は意外そうに瞬きをし、それから表情を和らげた。「心配するな。父さんが確認してくれた。母さんと一緒に田舎に行ってる」「田舎......」弥生の記憶にはその土地のイメージはない。それでも、彼の母親が一緒なら安心できる。「じゃあ、今は会えないのね？」胸が疼く。記憶を失ったことを、この瞬間だけは幸運に思った。だからこそ、子どもたちの姿に――強い好奇心を抱けるのだ。顔立ちは？声は？笑うとき、夢で見たように無邪気なのだろうか。弥生の眼差しが輝くの
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1016話
「どうして？」瑛介は久しぶりに会えた弥生を抱きしめたい衝動が強かった。心の欠落や罪悪感、不安を埋め合わせるには、四六時中でも腕の中に閉じ込めていたかった。「あなた、自分が怪我をしてるんでしょ？私を抱き上げたりしたら、傷口が開くわ」「そんなことない。君の体重くらいで裂けたりしない」「本当に？じゃあ、数日前に海外で傷口からあんなに血が出たのは、私を抱いたせいじゃなかったの？」「違う。あれはもともと傷が開いていたんだ」弥生に余計な罪悪感を与えないため、瑛介は即座に否定した。「......そう」弥生はじっと彼を見つめた。「じゃあつまり、傷が開いても、すぐに処置しなかったってことね」言葉に詰まった瑛介は、一瞬、自分が彼女のにはめられたように感じた。「......何のことだ？」と惚けてみせるが、弥生はふいに話題を変えるように問いかけた。「じゃあ、あのとき私たちをつけてきた黒い車に、あなたも乗ってたの？」ただの確認のような質問なのに、瑛介は思わず答えを考え込んだ。下手な返事はしたくなかった。「どうしたの？」弥生はさらに身を寄せる。「そんなに難しい質問？いたかいなかったか、ただそれだけでしょ？」傷口が痛んだときですら感じなかった苦しさが、今、彼女の問いの前では胸に重くのしかかった。「瑛介？」白い肌と黒髪の彼女が目の前に近づき、その吐息がかかった。瑛介の胸には、抑えるべき甘やかな衝動がまたも芽生えてしまった。先日は健司の登場に遮られた。煩わしさを覚えつつも、あのとき止められたことを少しだけ感謝もしていた。弥生の体調が万全でないのに、自分はそんなことを考えていたのだから。心のざわめきを押し殺し、彼はわざと話を逸らした。「いや、君はどうしてそんなに元気なんだ？検査の結果、問題なかったのか？」「話をそらさないで。あの車に、あなたは乗ってたの？」逃げ道はもうなかった。「......ああ、乗っていた」「乗っていたのに、あれだけの時間があったのに、どうして傷を処置しなかったの？」やっぱり責めるつもりかと瑛介は心の中で苦笑した。「また心配してくれているのか？でももう済んだことだろう。とにかく今、僕はこうして無事に君の前にいる。それで十分じゃないか」「つまり、今回はたまたま助かっただけで、次も同じ
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